弔電とネット その歴史

今回も、弔電 ネットの歴史について。


日独伊三国同盟締結と仏印進駐は、日米関係を更に悪化させました。


昭和15(1940)年末、アメリカからカソリックのメリノール会の牧師ビシヨップ・ウォルシュとファザー・ドラウトの2人が来日。


日本の政界・財界その他の有力な方面と接触して日米国交打開について打診し、間もなく帰国しました。


松岡外相は、海軍内の穏健派である海軍大将野村吉三郎を駐米大使に任命しました。


野村は「いかなる場合にも日米戦うべからず」を主義として、この意見を政府が了解したものとして就任し、昭和16年1月23日、陸軍省軍務局軍事課長岩畔大佐、大蔵省官吏井川忠雄らを随員として東京を出発しました。


渡米した野村大使は、ハル国務長官と会談をはじめます。


一方、前記のウォルシュとドラウトは、大使随行の岩畔、井川との間で日米国交調整に関する話し合いを始めました。


そして彼らは一つの試案を作成します。


これを日米でそれぞれ検討しましたが、昭和16(1941)年4月14日、野村・ハル会談において初めてこの諒解試案が外交レベルの話題として取り上げられました。

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